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UPs抽選、嫌な予感がするーー!

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大喜利を初めてやったのが去年の今日らしい(大喜利茶屋)。はぁ~そうか、とんでもない。でも遅い気もする。

大喜利にシフトしてしまったけど、しばらくやめないだろうなぁ。何かしらの後に燃え尽き症候群みたいなのになるか、プライベートにとんでもない変化があるでもないと。

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(昼に書いた文が、偶然大喜利界にもマッチしてしまいました。気分を害される方はブラバしていただけると助かります)

 

母親と死について話した。重く見えるけど、割と軽く。祖母がもう5年も持たないだろうみたいな話から始まった。

私はまだ身内の不幸を知らない。強いて言うなら小5で愛犬が死んでしまったくらいで、その時ですら3日間学校ですぐ泣いてしまうくらい取り乱した記憶がある。

今日まで近い人の死を知らないのは幸運だとも思うが、まあここまで人として成熟しきってしまった以上、ダメージがデカくなるんじゃないかという不安がある。しかも祖母は遠い存在ではない、徒歩1分の場所に住んでいる。死なれると困る。

そういえば、初主催で出演してもらったんだった。あれはウチの祖母が最高に面白いからである。知ってるおばあちゃんの中で1番面白い。80歳で調理師免許を取ったらしい。面白すぎるし凄すぎる。死んでくれるな。

転じて、死ぬのが怖いかという話になった。

私は怖い。本当に死にたくない。病んだ時にでさえ、死にたいとは思わない。死んだ後には何も残らないと思っていて、そんなのありえないし怖いからである。

身内の不幸を知った後なら分かるが、身内の不幸への知識が0の状態でこれになってるのは珍しい気がする。生きてりゃなんとかなるをかなり地で行ってきた人生。

人の命についての考えには、基本的には口に出すべきではない。ただ私は、命が人に理解して扱えるほど矮小なものではないと思う。扱えると考えるものがいれば、その命は、矮小になっていくと思う。

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